第6回「朽助のいる谷間」井伏鱒二


『山椒魚』に「朽助のいる谷間」を含む短編が収められています。

提出していただいた感想文に僕が言おうかなと思っていたことは全て書いてあったんで、一人一人に喋ってもらった方が良いかと思うんですけど、一応最初に大雑把なことをみんなで共有しておきたいと思います。一八九八年、明治三十一年生まれ。亡くなったのが一九九三年、平成五年ですからわりと最近まで生きていたんですよね。僕は井伏鱒二がすごい好きで、でもやっぱり井伏鱒二みたいなことはどうしてもできないんです。 太宰治なんかも井伏鱒二の安定感ていうんですか、 揺るぎなさっていうのが好きなのと同時に内心で腹立っていたというような感じもあるみたいですけど。それはなんなのか、井伏鱒二の文学ってなんなのかっていう話を今日みんなでできたらと思います。結局どういう特色があるかっていうと、「隠し」なんですよね。小説なりなんなり書くのは、個人の思想や感情を芸術的に表現する自己表現であると思うんですけど、井伏鱒二の場合は自己隠しとしての表現。どんどん隠していくことによって表れてくるものがあって、それがもの凄い魅力的だと思うんですよ。なんで井伏鱒二が私からの脱却というか、熱くならずに人間を見つめるのか。それから、なにを表現するにも大声を出さない。とにかくユニークである、他の人が全然やってないことをやってる。これらのことについて井伏鱒二の背景になにがあったかという一つの私の仮説を最初に話してしてしまいます、あまり言いたくないんですけど。井伏鱒二は世に出るまで同人誌なんかにいくつか関わっていました。初期の作品『ジョセフと女子大学生』『岬の風景』『朽助のいる谷間』『炭鉱地帯病院』とかを読むとですね、やっぱり隠しているんですなにかを。この人は同人誌のとき仲間にかなり詰められたんです。 全員が左傾化した中でどうしても左傾化できなかった。左傾化してないということを言えないまま言うというようなものがこの隠すことの始まりにあったと僕は思います。自分を隠すことによって逆に表れてくるものを表現しようとしていることが井伏鱒二の一つの特徴、屈曲、曲げ、暗示、韜晦、ストレートに言わないこと、こういうところですね。

では作品に入っていきます。僕がピックアップした立ち止まるところ十個くらいをなんでやねんて聞きますから、大喜利やと思ってその理由をみなさんで話し合ってほしいんです。まず二十二ページですね。朽助はなんでこの袴をはいたんかということを分かる人いますでしょうか。

Aさん:お祖父さんにもらったものなので、自分に合わない長い袴でもはいていたんじゃないかと思いました。 昔からの習慣に執着してるものがあるのかな。
Bさん:わざわざ「ひきずるほど長いものであったが」って書いてあることが気になりました。本人はとても真面目にやっているんだけど、傍から見たら笑えちゃう。他の場面でもそ うなんですけど、本人はすごく愚直なんですけど少し笑えて愛すべき存在っていうような朽助の雰囲気が出ているというふうに読めました。

小説書くときって緊張関係を作ると話が進みやすいからわりと作っちゃうんですが、ここにはなんの緊張感もなくて不思議な効果を生みますよね。そしたら次に行きます。「授業が終って私が帰る時には、朽助は必ず次のような注意を私に与え た。『橋の上を渡る時に、橋の上に立ちどまって川をのぞいてはなりませぬぞ』」この「なりませぬぞ」、芸細かいですね。その後もの凄い視覚的な表現が続いてここで質問です。朽助はなんで私に川をのぞいてはなりませぬぞと忠告したのか。

Cさん:昔からの言い伝え的なことを先生という立場で生徒に上から言いたかった。
Dさん:川に落ちて死んでしまうから。美しいものを見て引き込まれて川に落ちて死ぬ。

こういうのって通り過ぎちゃうところなんですけれども考えだすと面白いですよね。実は気になるところがあって、五十二ページで魔物の話をしてまして、こういう魔というものを見据えていたんじゃないか。つまり人間の不埒な気持ちとか不可解な気持ちを凝視することはしてはいけません、これ以上先は行ってはいけませんと井伏鱒二が作者井伏鱒二に訓戒として与えているというようにも読めます。井伏鱒二の小説には言わないことがたくさんありますから、 こういう問いとそれぞれの適当な答えで立体的に浮かんできたら面白いなと思います。

次はですね、いよいよタエトという可憐な少女が登場し ます。Tさんの感想を紹介させてもらいます。「改稿前後で内容を比較してみたところ、『私』のタエトへの関心を示す箇所が 集中的に削除されており、青年の持つ欲望の生々しさが減じていたのですが、私自身は改稿後のバージョンを以前に読んでいたので『私』がここまでタエトに執着し ていたのかと呆れ返るとともに、井伏先生は若いころの原稿を読み返してこれらの 生々しさが恥ずかしくなってしまったのかなと思いました。最後のシーンでも『私』は朽助の家が沈んでしまってやっと朽助の悲しみを本当に理解したのかなと思っていたのですが、この期に及んでまだ『タエトの石投げをする姿体を好ましく眺めた』などと言っていてなんだかちょっとがっかりしました。この一文は削除されています」 笑えるようにも書いてあるんですよ生々しいながら。これをギャグに落とし込むフォーマットを作っているんですよね。「私は知っている」っていうところ以降からしばらくは文体を変えてギャグにしちゃってるんですよ。こうやって文体変えるのも一つの隠しなんですよね。こういうふうに曲げてくるんですよ直球じゃなくて。井伏が憎いですって言う太宰の気持ちが分かります。

それから、杏の実のところにいきます。Yさんが書いてくださったのは、一つの風景に対して視点によって見え方が違ってくるということ。それはなぜかというと、「私」 が一歩引いて現実を見ていて読者は「私」が語 りかけることを通して見ているので、読者は語り手の「私」のフィルターを通してしか朽助やタエトを見ることができないということ。この杏の木をなぜ朽助は乱暴にゆするのか。

Hさん:どうせ立ち退きがあるのでゆらしてみたかった。

そりゃそうですよね。小説家がこれを書いたことによってなにを隠していたか。なんだと思いますか杏の実っていうのは。危ないですよね。

Iさん:今聞いてて思ったんですけど、アダムとイヴ。
Jさん:特にタエトと私が共有するっていうシーンだと思っています。朽助は老い先が短いという感じがするんですけど、私達はまだ若いから未来がある。そういうものの対比の一つの手段として杏の実があるんじゃないかな。

もう一つ、杏が出てくるところがありまして「『眠れなんだら、これでも食べてみたらよいがな』朽助はそう言って、タエトに杏の実 を与えた」「彼女は両手に二個ずつの果実を持って、目を見開いていた」朽助と私ははさみ将棋で夜更けの風音や物音に対抗した。タエトは杏を持って対抗した。「祈りが終ると彼女はどちらの手にも二個ずつの果実を持って、寝床に入った」さっきなんて言ってましたっけ、「片手に四個以上は握ることができなかった」この 個数を正確に言っているところも意味があると思うんですけれど。彼女の手から果実がころがり出てしまってから風と雨は止んだ。これはどういうことですかね。なにを隠して言おうとしているんですか。これは難しいですからそれぞれ考えてください。

鼾のところが面白いっていう感想がいくつかありましたけど、ここは本当に素晴らしいですよね。これもなに気ないところですけど、「牛の背中から一ぴきの蟎をむしりとるとそれを靴の裏でふみつぶした。蟎は自らの血潮と土とにまみれて、砕けて死んでしまった」 蟎が自らの血潮と土にまみれて自ら死んでしまった。これはなんなんですか。私の読み方ですけれども、「私」の側に属する杏の実的なもの、人間的な深淵に至る前の欲望みたいな。井伏鱒二の文学を語るときに屈託っていう言葉がよく使われますけど、閉塞感みたいなものを上手く表しているんじゃないかなと思います。ここで理屈を超えて自らの血潮って書きたかった理由があるはずなんですよね。その辺を読みたいですよね。

それから四十四ページ真ん中の「月の光を受けて、霧自身は灰色に光った」光を浴びてどう変わるっていう表現が何箇所か出てくるんです。恐らくいちいち意味があると思うんで、考えると面白いと思います。それからですね、五十ページ、木を伐るシーンですね。これも言及してくださっている方がいらっしゃったんですけど美しいシーンですよね。ふざけてエロを書いているかと思ったらこんな美しいシーンまで書きやがる恐ろしいおやじですよね。それから、ほとばしり出る水の棍棒や丸太はなにを表しているのか。二重三重に入 り組んだ意味があると思います。それから魔物の話。それから住居に襲いかかり最後に屹立して流木となって走り去る一本の柱。これはかなり感動するところですけど、実は一体なにに抵抗する姿なのか。それから「赤土色に濁った水は周囲の山と青空とを水面に映して、谷間の形相を和げようとこころみた」「和げようとこころみた」なんで、和げてないんです。で、いろいろありまして 「この小鳥はいまに飛び疲れてしまうであろう」とタエトは言うんです。つまりこの小鳥は完全に朽助の二重写しになっていますよね。鳥は我を忘れているんですけど、タエトはこれを石で追う。悲歎にくれる老人の姿はここで救われるかもね、赤土色の濁った水が谷間の荒々しい形相を和げようとしているよね、タエトは老人に寄り添おうとしているよねってあるんですよ。水に侵食されていく谷間、人間の内面、人間の記憶、時間が侵食されていく中で、こうやってタエトのような可憐な少女が和げようとこころみてますよねっていうことで感動的なんですけど、ここに一つの疑問が。というのは先ほどおっしゃってくださった、此の期に及んでまだ「タエトの石投げをする姿体を好ましく眺めた」 などと言っていてなんだかちょっとがっかりした気持ちはどうしたらいいか、これはどうですか。

Tさん:がっかりします。自分が少年時代に過ごした場が無残になっているのに、もうちょっとしんみりしてもいいのかなと。そんなときでもタエトをじっとり見てるのかと思った。

僕はね、さすがだな、そうじゃないなと思ったんですよ。「好ましく」の意味がそれまでの好ましさと変わった好ましさなのかなと思ったんです。この谷間が沈んでいくところを見てるんで、最後の屹立する丸太も見てるんで、少し悟った好ましさにしてるんじゃないかな。

Tさん:そう考えるとちょっと好感度アップ。

 

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