第9回『いかれころ』三国美千子

いかれころ

 

それでは第六十八回、何回か忘れましたけど読書会を始めたいと思います。今日は『いかれころ』三国美千子さんの小説です。読むのにちょっとコツがいるというか、どういう風に受け止めていいのか自分で考えな分からんところがあるような小説です。皆さんに書いてきていただいた感想を今ざっと読んだんですけど、ちゃんと読みこなしているなぁという感じがしました。どんな話かおおざっぱなところだけ言いますと、昭和五十八年の四月から九月頃の河内の大きい農家の家の話。次女の縁談があったり、分家したお姉さんの家の話とか。語り手は四歳の奈々子ですけど、自分の両親のことを名前で呼んでいます。これは三人称的な語りにしているんですけれども、ここに文体的工夫があって、だいぶ経ってから回想しているわけです。四歳の子供のそのときにどう感じたとか、こういう風に世の中や景色が見えたとか心の中は描かれているんですけど、その他の人のことは心の中のことは描いていなくて、奈々子がその目で見たり耳で聞いたりする外面的なことが描かれて話は進んでいきます。僕は母方の実家が泉州で近かったもんですから、家で親戚が喋ってる感じってものすごい生々しかったんですけど、それでも分からんことがたくさんありました。だから他の地方の方だと全く何を言ってるか分からないということがあったと思いますんで、そういうのも含めて、どんなふうに読んだかっていうのと、なんか考えがあったらおっしゃってください。

Aさん:「お天道様が見ている」というキーワードが浮かび、その観点から因習、古い世界と今時の価値観が対立している様子が描かれていると読みました。そしてお天道様がいろんな影をあぶり出しているように思えます。
Bさん:この小説の中には三つの視点、四歳の奈々子の視点と大人の奈々子の視点とその土地の地霊とか自然が言っているようなナレーションがあると思います。

四歳の時に世界がどうやって見えていたかっていうのは言語化できていないわけですから、それを言語化するのはかなりの離れ業ですよね。山のところでは、あれがパイのふちに見えてるという子供のものすごく特徴的な世界の見方だと思いました。一方、大人になった奈々子が辛辣に見ている視点、親を三人称で呼ぶことはかなり魂が抜けてないとできないと思うんです。それから死んでしまった人の集合体と言うのも大人の視点のドライなところ冷酷非情な物の見方っていうのが感情抜きで語られているという感じはしました。

Cさん:「いかれころ」っていう言葉はネットで調べたら踏んだり蹴ったりという意味の方言っていうのを後付けで知りました。語感だけで見ると頭がいかれてる、狂ってるという方の意味を連想しました。精神を病んでいると描かれているのが叔母の志保子ですけど、志保子ではなくて久美子たちがいかれころという言葉にふさわしいと奈々子が思っているところに狂人てどういうことなんかなと考えさせられました。
Dさん:この作品に黒いかげ、うす黒いものという言葉が多く出てきて、これがもう作品全体のテーマを覆っていると思いました。いかれころが意味するものは、志保子や隆志、幸明、死にゆく犬のマーヤも含めて強い者たち、社会から排除されていく存在のことなのかなと思いました。

歩道橋と外環状線というのは何度も出てきて、ちょっと思ったのは、美鶴の実家側が大体なんでも仕切っているということ。末松は一生懸命やるんだけど自分の仕事だけで、決定することはあまりなくて、美鶴の方に全部仕切られているというのがシズヲの見方ですよね。溺れ死んで魚に食べられるっていうのはもしかしたら祖母方に全部仕切られている焦燥感が実家にあるのを子供の感覚で察知しているのかなあと思ったんです。水気のものがひたひたしている感じを歩道橋のところで描いているのは何かそうじゃないかなという気もするんですけどね。

なぜ結納の直前の忙しい時に久美子は奈々子にヒステリックにピアノの練習をさせるのか。

Eさん:久美子は幸せという形を作るためにはどんな日であっても自分が思う形通りにしないとだめなんだと思う。久美子は最初から全然幸せだと思っていなくて、むしろ志保子の方が自分の意思を通して自由で幸せだったのかな。

自由っていう言葉が出ましたよね。人間の自由と幸せってどういう関係性があるのか。つまり自由だったら幸せなのか。この小説の肝ってもしかしたらそこにあるのかなって気もします。山の向こうに行ったら自由なのかどうなのか。

志保子は一体誰に毒を盛られると思っていたのか。志保子も不満を抱いているから毒を盛られるという妄想をするわけですよね。何かに抗っているんです恐らく。一体何に抗っているのか考えるんですけど、考えようとすると思考が止まってしまう。結局一族とか親って一体化した自分自身なんですね、性質とか身体を受け継いでいるわけですから。親に抗うっていうことは結局自分に抗うってことなんです。自分で自分を思い切り殴れないのと同じように、何に抗っているか考えられなくなってくるんですよね。

Fさん:単純に考えると志保子は今でいう統合失調症なのかなと思いました。見張られているとか毒を盛られるとかの妄想を症状として聞いたことがあるのでそれを表しているのかなと思いました。

久美子が志保子にお雛様を片付けられて烈火の如く怒ったのはなぜか。

Aさん:お雛様を片付けるのが遅くなるとお嫁に行けないという通説があって、久美子は奈々子を自分の分身としてどこかに行ってほしくないというのもあるのかな。
Eさん:手が回っていなかったところを志保子が片付けてしまったので、自分の欠点をつかれたように思ったのかもしれない。もしかしたら志保子から隆志に一方的に思いがあったかもしれない。そういうところも久美子は敏感に感じていたのかもしれない。

それからやっぱりこの話の最大の謎は志保子はどういう人なのか。志保子のかごの中はなんだったのか、志保子はなんで縁談を断ったのか。

Dさん:かごについては気になっていたんですけど、姉の久美子をすごく好きだったんじゃないかなと思いました。隆志に対しても特別意識していてひょっとしたら恋愛感情に近いものを持っていたのかなと思いました。
Cさん:志保子と奈々子と隆志の三人で食事をするシーンで、奈々子を介してしか二人は会話しないという描写があったんですけど、家庭の団欒が感じられて二人の関係を考えさせられるなと思います。ヒステリックな久美子と比べて志保子は優しいから癒されるものがあったのかな。

頼みの綱の久美子が帰ってくるのを待つだけであったみたいな描写があって、その気まずさは隆志はやっぱりむっちゃ嫌やったっていう感じはありますよね。隆志ってそういうやつじゃないですか。二人の間に通い合うものが仮にあったとしても志保子の一方通行。ないとしたい派ですけど。志保子が縁談を断った理由なんですけど、これはどうですか。

Bさん:志保子は自分の病気のせいで姉が苛立っていると思い込んで、姉より幸せになってはいけないと思っているのかな。写真を持ち歩いていたのも贖罪の意味なのかなと思いました。
Aさん:志保子は変化をしたくない人なのかなと思いました。結婚したくないというよりも変わりたくないんだと思いました。
Eさん:和良さんを自分と杉崎のしがらみで苦しめることがあったらいけないと思ったのかな。
Dさん:結婚について志保子と奈々子が話をするところがあったんですけど、結婚するなら自殺するという、それが志保子の決意に影響を与えたんじゃないかと思いました。

話のど真ん中に常に志保子がいるんだけどその人が狂人という設定になっているんで、狂人が真ん中にいるから話が歪むんですよね。でもよく読んでいくと、志保子の言っていることが一番まともで周りはみんな狂ってる、そういう意味では真っ当なものと気違いが逆転しているような作りになっていると読もうと思ったら読めますよね。

この小説は博多弁にしたら絶対成り立たへんでしょ。それが大事なんですよね。河内弁じゃないと成り立たないから意味があるんですよ。そういう意味では方言小説のジャンルを切り開いた小説とも言えるんでしょうね。

これを読んで思い出した作品とかなかったですか。
西加奈子「円卓」
小山田浩子「穴」「小島」
中上健次「枯木灘」
宇佐美凛「かか」
今村夏子「こちらあみ子」
川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」
町田康「告白」
チェーホフ
ヘンリー・ジェイムズ「メイジーの知ったこと」

Amazonレビューは鍋とか園芸用品とかそういうもん買うとき以外は見ちゃだめですね。

 

 

 

 

 

 

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