第2回『こちらあみ子』今村夏子

「こちらあみ子」素晴らしい小説です。僕の最初に読んだ印象は文章がまず素晴らしいということですね。果たしてこれが新人の公募で一般の人が新人として応募するような文章かというぐらい素晴らしい文章なんです。冒頭の部分から文章が流れるように美しくて小説の書こうとしている世界の感じが既に現れ始めているんです。それをまず最初に味わってほしいですね。それからこの作品はモンタージュが実にうまいんですね。例えば三十三ページ、あみこが一方的に熱烈に愛している小学生の男の子との会話のあとに叙述として出てくるわけです。なんでもないように見えるんですけど、この赤い実をもぎとろうとしてジャンプしたっていうのが小説の全部に放射して響いているわけです。

十四ページ、これは十五歳のあみ子の状態ですね。最初に十五歳のあみ子が短く描かれて、そこから回想に入って九歳十歳のあみ子の姿が描かれて、最後にまた十五歳のあみ子に戻ってこの小説は終わるんです。あみ子がさきちゃんに口の中を開けて見せるということは、これから始まる小説の百二十ページまでが口の中にあるということなんですね。言ってしまえば作者の決意表明、それを私はいまから見せるよというわけなんですね。それがこの小説の最初から飛ばしてる感になっているんです。

家の間取りとか状況が文章に非常にうまく書かれているわけです。図で示すことに慣れているので文章で書くとなるとベテランでもごてくさするんですが、これは非常にすっきりと書いている。そういうことがものすごい重要だったりするんですよ。

ここ重要なんですけど、お父さんと一緒に車の傷を消すところ。何気なく読んじゃうんですけどこれもやっぱり小説全体に響いているんですよね。お父さんがその傷をどうするかということなんですが、お父さんがその後取る行動をここで予見しているんです。これも一つの文章が小説全体に響いている美しいこの小説特有の作りの一つなんです。

あみ子が書道教室を赤い部屋と呼んでいるんですが、なぜ赤なのか。僕は分かりませんでした。隙間から覗くという状況でしか他者と関わることができないあみ子っていうのがここで書かれているわけです。のり君が習字を書いて掲げたのが、誰とも通交できない自分に向けられたような気がした。そこからあみ子の一途な愛が始まってしまうわけです。そういうあみ子の状況をうまく書けているということです。

パゾリーニの映画がパゾリーニの映像になっているように、この小説がこの文章になっいて素晴らしいのは、例えば残酷さですね。家族写真を撮ろうとしたときに家族の団欒の場がぶち壊しな感じになった。あみ子の兄の気持ちがどんどん消失していく様子とか思いとかがものの見事に残酷に書かれているわけです。さて、その残酷なカメラを構えているカメラマンは誰ですか。作者ですか。あみ子ですか。あるいはカメラそのものが作者ですか。カメラのレンズが作者ですか。この文章から立ち昇ってくるその不気味な感じっていうのがまた全体に放射していてこの小説独特の迫力となっているんですね。

兄はおそらくあみ子と一対の存在だったんじゃないかなと思うんです。これもすべて小説の中に書いてあることを読んで思ったんですけど、蒸しパンの具あるいはゼリーですね。兄が普通にやっていることだからと思ったら社会がそれを許さなかったということです。この小説は細かいところにいっぱい落とし穴があって、一行ずつ解釈していけるんですけど、それが多分優れた小説だということだと思います。流している文章が一つもないんです。

Aさん:お母さんが「希望」という字を書かせていたのは、あみ子を希望として見ようとしていたのかなと思っていました。

それ挫折しますよねものの見事に。希望っていう字やったんですよ。僕が昔持っていたサンダルは「ハイクオリティサンダル」って書いてあったんです。すぐ壊れました。

次にまた素晴らしい部分っていうのは、あみ子の狂気が書かれているくだり。絶望と希望があるんですけどまず絶望からいきますと、父親の押しですね。それからこの作品の唯一の救いと言ってもいいのは、習字の字の汚い男の子。この子だけがあみ子に対しての唯一の回路となっているんですよね。今村夏子という人のすごみはあみ子がそれに一顧だに値しないこと。ここがすごいですよね。まったく美談として書いてないから読者はすがるようにそこを読むしかない。それでこの章の最後にあみ子は太って清潔になったって書いていますけど別の絶望がここにはありますよっていうふうに読まなきゃいけない。それがこの小説の恐ろしいところなんですね。

引越しで荷物を整理するわけですが、あみ子はカメラを捨てトランシーバーを選びました。さて、あみ子はどうしたかったんでしょうね。あるいは作者はそこになにを書いていたんでしょうね。あるいは僕らはなにを感じるんでしょうかね。

さて問題ですけど、ない顔の女の子を思い出そうとしてあみ子はどうしてうろたえたのでしょうか。ここは僕もなぜだろうと思ったところです。問題二です。のり君に保健室で無茶苦茶殴られますよね。なんで殴られたのに一息ついたのか。時間がないのでこれは僕の考えを言いますと、好きと言わなくて済むから、自分の心を砕き続けなくて済むから。一撃で殺されたと思って一息ついたわけです。ここも怖いところですね。

ちょっと息ができないくらいに感動的なシーンが続きまして、百十四ページあたりで兄が戻ってきます。鳥の巣とたまごなんですけど、兄がそんなものいらんのだと言って投げる。これは神話的破壊と再生というとものすごく陳腐ですけれど、その陳腐なことを見事に文学的に表現している。ここはちょっと感動的ですね。そのシーンのあと、ここはこの小説の一番の展開点なんです。そのときあみ子の中になにが起こったか。百二十ページ「引き締まっているのに目だけ泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かってなんでもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子はなにも言えなかった。」これって最初の空洞のことを思い出しませんか。結局これだけの分量を書いてもなにも言わなかったんですね。でも優しくしたいって気持ちだけは残った。優しくしたいと強く思ったけれども言葉が見つからなかったときからあみ子の中にあたらしい娘として、兄が独立して神話的に強い存在となったときにあみ子は優しい存在と変わったんですね。あたらしい娘にここで変わったんです。こんな感動する話を僕はかつて読んだことがありません。

さて三つ目の問題です。これは時間がありませんので家に持って帰って考えてほしいんですけど、なぜあみ子は名前を呼ばれてびっくりしたんでしょうか。これ謎ですよね。小説の中には全然書かれてないです。竹馬に乗って遠くで揺れている子どもがいる。なかなか辿り着かない。空洞ならいくらでも見せてあげるよって書いて始まったこの小説が結末にきて、まだあそこに九歳の自分はいるよな。この小説を書いたからこれで決着がつく話ではないぞ。九歳の自分はまだあそこで竹馬の上で揺れているぞ。だから名前を呼ばれて家の中に入る、私はここで一旦筆を置いてこの小説をやめるが、まだ大丈夫だ、あいつはあそこにいる。一旦は筆を置くけれどもまだ自分は書き続けなければならない。こういうことかなと僕は思いました。

Bさん:向こうから来る女の子は亡くなった妹で、初めてトランシーバーで返事が返ってきたみたいな。

Cさん:あみ子が保健室でお化けの歌を歌うところがあるんですけれども、こわいなっていう歌詞は言わないんです。でもトランシーバーでお兄さんに呼びかけるときはこわいって感情を爆発させるんですね。なんでここでこわいって言えてお兄さんと通じ合えたのかなというのが分からなかった。

つまり小説が響くって最初から言っていたのはそういうことで、ここでこわいっていうことをあえて歌わなかったことが最後に爆発するっていうことですよね。すごくいいところ読んでいらっしゃる。

Dさん:最初と最後のあみ子が十五歳っておっしゃっていたんですけれど、私はもうちょっと時間が経っているのかなと思ったんです。「一年おきに小さな実をつける柿の木のそばまできてから腰を下ろした」ってあるので、少なくとも三年は経っているんじゃないかなぁ。

すごい。それはもう決定打ですね。少なくとも十八歳にはなっているだろうと。理論的に考えまして十八または十九。あみ子は十九歳です。この場で決まりました。いまの話はすごかったと思います。

Eさん:あみ子がだれとも通信が取れない、でもだれかと言葉を交わしたいというテーマがあって坊主頭の男の子と話すシーンでは一回通じていると思うんですよ。そこは二人の意味がすれ違っているのに勘違いとかミスとかで繋がったような瞬間が生まれるところかなと思って。そういうことってあるじゃないですか。

Fさん:さきちゃんは僕も亡くなった妹なんじゃないかと思ったんです。もともと「あたらしい娘」っていう題名だったんで、田中家から生まれた亡くなったはずの妹さきちゃんを得て、お母さんに中身を変えてプレゼントを渡し直している話なのかなと思って読みました。

Gさん:十五ページ「母は自宅で書道教室を開いていた。もとは母の母が寝起きしていたという縁側に……」ということはつまり継母の自宅に父親と兄とあみ子が住んでいるということですよね。これはいったいこの小説においてどういうふうに働いているのかが分からなくて。

Hさん:あみ子が越してくる前からのり君はいるよみたいなシーンがあって、それでいうとあみ子は継母の家に引っ越してきたのかなっていうふうに思うんですけど。

僕これ完全にスルーしてた。すごいな、そこまで小説読まれたら油断して小説書かれへん。この衝撃の新事実をみなさん発表してください。これはやる気のなくした継母が生まれ育った家であったという事実と、現在あみ子は十八または十九歳である事実。それはたぶん作者もコントロールできないことなんじゃないですかね。保坂和志さんの『試行錯誤に漂う』という叙述があって、作者が作品の全てをコントロールしているかしていないかっていう話なんだけど、すごくおもしろく読んだんです。小説ってすべて分かる必要はないんですよね。だからここは音楽のように気持ちよく読むところだと思いますよ。

 

 

 

 

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