第3回『ぴんぞろ』

今回は戌井昭人さんの『ぴんぞろ』という小説を取り上げます。今日は都甲幸治さんをお迎えしていますんで一緒にやります。六つくらいの話をしたいなと思います。おかめの問題、火事の問題、父の不在という問題、場所の問題、犬と猿の意味、それから食べ物のこと。

おかめの問題からいきますね。この小説はポイントポイントでおかめが出てくるんです。最初と最後がおかめなんです。最初の方に、かなり大きめのおかめの仮面がものすごく印象的に書かれているわけです。最後は「賽銭箱の中でサイコロがピンゾロになり、リッちゃんの顔は、つるんとおかめになった。」かなり意味深な、これをどう捉えるかによってこの小説の読み方が変わってくると思うんです。一日中寝てばかりいる女の子が、彼女のどっか行ってしまったお父さんの持ってきた熊手に飾られていたおかめの仮面を被って踊り始めた途端、とてつもない聖性を帯びるわけですよね。それから五十ページ、この得体の知れない男はおかめと通じている、半分神の側にいるような人であるということが分かるし、おかめというものはこの小説全体で良きものであると同時に一つ飛び越えたなにかであるということがわかるんです。

都甲さん:ある種の人間を超えた生命力みたいなところに行くときにどうやら女性という通路を通っていくのかなと思ったんです。

主人公はずっとサイコロの目の通りに生きているんですよね。自分の意図しないところでずっと悪い目ばっかり出続けるわけなんですよ。で、最後の最後に賽銭箱に自分の悪因縁の象徴のような賽を入れたら、バーンと一で直列してリッちゃんの顔がつるんとおかめになる。ものすごいシンプルですけど男の立場から見た、女を失った男が女を得る話。それがものの見事にきれいに書かれているわけです。どこがきれいかっていうと、いろいろあるんですけれど、この話は十二月三十一日で終わりますよね。これがもし落語だとしたらものすごい縁起の良い話なんです。縁起物小説っていう新しいジャンルを切り開いたんですね。

四つ目の論点としてあげました場所の問題です。回想から川を越えて現在に至っているわけですね。それから、ここがこの小説の素晴らしいところだと思うんですけれども、浅草という俗の世界から山の中の温泉場に行く。そこはある種神界なんですね。結界があって、それを超えるための一つの禊、それがハイキングコースです。それからまたリッちゃんと一緒に浅草に戻るんですけど、それは火事によって浄化された別の浅草なんです。だからリッちゃんの顔もおかめになり得るし、サイコロの目も一で直列するわけです。そのようないくつかの明確な境界を超えて行くことによって女を失い女を得るということが、男の立場から描かれているわけです。どう?

都甲さん:僕も場所の質の違いというのは考えました。やっぱり小説の時空っていうのは全然違います。「人生に意味はないけどサイコロの目には意味がある」っていう、戌井さんの作品はちゃんと生きていないと読み取れないメッセージとして知恵をくれる。一番気になったのは鬼場のところなんです。あそこで主人公がなんで死なないか。聖なるものと動物が隣り合ってる感じがしました。聖俗が反復されながら全部いろんなところで呼び合うという構成になっていると思いました。

「人生に意味はないがサイコロの目には意味がある」というのはこの小説に通底するものですよね。要するに賽の目っていうのは人知を超えている。小説っていうのは人知を超えているんです、ある意味で言うと。それから動物の話ですけど、猿は神の使いなんです。だからあんパンを供えるんですね。それから犬です。通る人通る人に意味なく噛みかかってくる犬というのはなんの象徴なんでしょうか。リッちゃんというのは人間の獣性とか欲望を自在にコントロールするシャーマニックな役割を作品の中で与えられているわけですよね。だから内側リス六十匹で作ったコートを見せたら犬がおとなしくなるわけです。もう寒いから嫌やわとか言いながら見せてるんです。なに気ないところなんですけど、そういうのは小説の中ですごく効いてるんですよね。作家はざっと書いてると思うんですよ。でもね、これきっちりやることで後で効いてくるんですね。小説のそういう面白いところを読んでほしいですね。

都甲さん:リッちゃんが眠れないはずなのに寝てるよねっていうシーンがありましたよね。

それはですね、重要なところが一つありまして、リッちゃんのぬけなのか今井のぬけなのかということで見方が変わってくるんです。屋根が抜けて空がバーン見えるでしょう。縁起なんですよこれ。通俗スピリチュアルに落とさず、小説としての哀感をギリギリのところで保ちながら書いているところがすごく美しいんです。

父の不在って論点であげましたけど、これもシンメトリーに上手くできてて、菊池寛の『父帰る』っていう戯曲を改ざんするわけですよ。山師はやっぱり響いているんですね。それからここは泣いたんですけど「家に戻ると、リっちゃんがうどんを食べていた。うどんにはチクワが二本浮いている。『リッちゃんはうどんばかりだね』と言いながら、婆さんは仏壇に供えていた羊羹を持ってきた。」言葉で説明しないで、リッちゃんという人を魅力的に書いているところがものすごい上手い。こういうのが小説の味わいですよね。食いものっていうのはこの作品でものすごい効いてて、餅から始まって、アジフライ、最後天麩羅まで出世するわけです。この食べ物の普通性というか。これしかないルートをきているんですよね、羊羹もしかり。

さてどうでしょうか。ここまでで質問があったりとか、あるいは俺の読み方は違うぞとか、お前らは根本的に間違っているとか、そういう話をしたいです。

Aさん:火事によって浄化された浅草に戻って来たというお話をされていたんですが、それは神様も死んでしまったということなんですか。

燃えたのは長谷川芸能社だけで賭場というのはもぬけの殻になっているんですよ。神々は役割を終えた。なぜならこの物語は女を失った神が新しい女神を得る話だから。神っていうのはその場が自分の居場所じゃないなと思ったら、前触れなく予期なくいなくなるんですよね。なぜわざわざそこがもぬけの殻になっていたと書いたのか。それって意味じゃなくて情緒なんですよね。

Bさん:この話は日本神話をモチーフにしているような感じを受けました。天照大神が天岩戸に隠れたときにアメノウズメさんがエロティックなダンスを踊って天照大神を誘い出したというのがあって。おかめの面の由来とされるアメノウズメさんはリッちゃんと通じるところがあるんです。アメノウズメさんと結婚した神様というのがサルタヒコさんで、その神様が道祖神で塞の神様として祀られるようになったそうです。アメノウズメさんが高天原っていうところから人間界に降りてくるときに道案内をした神様がサルタヒコさんだったんです。この話は結局リッちゃんと主人公は神様であるんだけど、さらにもう一段階上の神様に動かされて、日本神話的な行動を取りながら動いている。

今井はサルタヒコ、リッちゃんはアメノウズメノミコト。天井の屋根が落ちるのは岩戸開き、最後にピンゾロの目が出るというのは日が昇ること。おそらく日本神話で最高神だと言われているのは太陽神だと思うんですけど、天照大神が最後に出てくると。太陽神が全てを支配して動かしているんじゃなく、お互いに干渉しあうことによってこの話はこの結末を迎えたのではないかと、大体そういうことですかね。面白いですよね、神話的な世界っていうのはね。とても素晴らしい読み方だと思いました。

都甲さん:戌井さんは決してそこまで日本神話を知らないで書いているんだろうなって確信があるんですけど、緻密にしっかり無意識まで使って優れた作品を書くと、決して間違わないんだなって今お話聞きながらぞっとしましたね。

Cさん:お婆さんのことがあまり出てなかったので気になりました。この話はお婆さんの芸が入ってくるところからスピード感が出た感じがしました。
お婆さんの役割というのは難しいですね。私の読むところによるとわりと説明的なんですよこの小説の中では唯一、存在として。

都甲さん:婆さんが説明台詞を言うベタな存在として出てくることで、読めるようになる人もいるという部分もあるかなと思います。

Dさん:ピンゾロの目について先ほど太陽の象徴というお話がありましたが、私は話の随所に出てくる聖と俗を繋ぐ細長い通路の断面を象徴しているんじゃないかと思いました。

Eさん:それ自体がその細い通路で、俗から聖の方にブレイクスルーするものとしても機能するし、逆のときも機能するものになっているんじゃないかなと思います。

なるほどねえ。そうするとね、僕自身が分からないところでね、一つ伺いたいんですけどね。この小説の最大の謎、サイコロってなんなんかっていうことです。

Fさん:不安な気持ちにさせておきながら必ず大丈夫になっていく感じが読んでて気持ち良かった。運をどうにか変えてやろうとしちゃうと良くないことが起きて、そんなことしないで流れるままで良くなっていくよっていうそこが気持ち良かった。

賽の目に全て任せて賽の目のままに流れて行くっていうのがこの小説の一番肝のところだと思うんですよね。「賽の目には意味があるんだよ」の意味は人によってそれぞれ違うと思うんで、そういうふうに感じ取るのも一つだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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